1906年以来、100年以上の歴史を継承する
アサヒグループ食品です。

  1. 1906 明治39年
    和光堂株式会社の前身となる和光堂薬局を神田(東京都)に開く
  2. 1928 昭和3年
    大日本麦酒株式会社 目黒工場内に『ヱビオス』製造工場を設置
  3. 1944 昭和19年
    大日本麦酒株式会社の薬品部門を分社化し、大日本ビタミン製薬株式会社を設立
  4. 1947 昭和22年
    天野実業株式会社を福山市(広島県)に設立
  5. 1949 昭和24年
    大日本麦酒株式会社の分割により、大日本ビタミン製薬株式会社が朝日麦酒株式会社の直系会社となる
  6. 1953 昭和28年
    和光堂株式会社を神田(東京都)に設立
  7. 1964 昭和39年
    大日本ビタミン製薬株式会社から、エビオス薬品工業株式会社に改称
  8. 1967 昭和42年
    岡山工場の操業開始
  9. 1977 昭和52年
    栃木さくら工場の操業開始
  10. 1979 昭和54年
    栃木小金井工場の操業開始
  11. 1982 昭和57年
    エビオス薬品工業株式会社は、朝日麦酒株式会社と合併し、朝日麦酒株式会社の薬品事業部となる
  12. 1984 昭和59年
    株式会社千葉実母散の営業権を継承し、株式会社千葉漢方医薬研究所を設立
  13. 1986 昭和61年
    大阪工場の操業開始
  14. 1988 昭和63年
    株式会社千葉漢方医薬研究所から、アサヒビール漢方製薬株式会社に改称
  15. 1992 平成4年
    アサヒビール株式会社の食品事業部を分社化し、アサヒビール食品株式会社を設立
  16. 1994 平成6年
    アサヒビール株式会社の薬品事業部を分社化し、アサヒビール薬品株式会社を設立
  17. 1995 平成7年
    アサヒビール薬品株式会社がアサヒビール漢方製薬株式会社、順興薬品工業株式会社と合併
  18. 1995 平成7年
    茨城工場の操業開始
  19. 1995 平成7年
    ポーラフーズ株式会社を設立
  20. 1998 平成10年
    アサヒビール食品株式会社がフリーズドライ事業の営業譲渡を受け、日本エフディ株式会社を子会社化して事業開始
  21. 2002 平成14年
    アサヒビール薬品株式会社がポーラフーズ株式会社の全株式を取得
  22. 2002 平成14年
    アサヒビール食品株式会社とアサヒビール薬品株式会社が合併し、アサヒフードアンドヘルスケア株式会社を設立
  23. 2003 平成15年
    アサヒフードアンドヘルスケア株式会社がポーラフーズ株式会社と合併
  24. 2015 平成27年
    アサヒグループ食品株式会社を設立
  25. 2015 平成27年
    アサヒカルピスウェルネス株式会社を設立
  26. 2016 平成28年
    アサヒグループ食品株式会社が、天野実業株式会社、和光堂株式会社、アサヒフードアンドヘルスケア株式会社の製造以外の機能を統合し、事業開始(製造3社は連結子会社として事業を継続)
  27. 2017 平成29年
    アサヒグループ食品株式会社が製造3社と合併
  28. 2020 令和2年
    アサヒグループ食品株式会社がアサヒカルピスウェルネス株式会社を子会社化
  29. 2021 令和3年
    アサヒグループ食品株式会社がアサヒカルピスウェルネス株式会社と合併

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(PDFファイル:約291KB)

  1. 1906 明治39年
    国産初のベビーパウダー『シッカロール』発売
    シッカロールの誕生
    江戸時代には、各家庭で米粉、牡蠣粉、葛粉、天瓜粉(天花粉)、ひき茶など自家調製された粉があせもの治療に使われていました。しかし、粉によっては、うじやしらみがついたり、かえってかぶれを生じたりすることがあることが『小児必用養育草(香月牛山)』には記載されています。また、粒子は粗すぎないほうがよいなどの記載もあり、どの粉をどのようにして使うかなどの知識が必要とされていたことがうかがえます。この当時は、まだ、市販品は普及しておらず、あせもの予防として風呂あがりに使われることは少なかったようです。
    このようにあせもの治療に使われていた天瓜粉(天花粉)などの種々の粉を、あせもの予防という日常的な使い方にして普及させたのが、和光堂薬局を開設した弘田長(つかさ)博士です。弘田博士は、東京帝国大学薬学科の丹波敬三教授と共にドイツ医学の知識を持って、あせもやただれにより有効な処方を作りあげました。医薬と薬学の博士二人が生み出した名作、シッカロールの誕生です。1906年(明治39年)のことでした。
    当時のシッカロールの成分は、亜鉛華40%、タルク40%、澱粉20%の割合でした。『女用訓蒙図彙』(1687年)に記されているあせものくすりとして「はまぐり(無機物)」と「うどん」の組み合わせが記されていますが、シッカロールの成分においても、「タルク(無機物)」と「でんぷん」が組み合わされたというのも必然性が感じられ、興味深いものがあります。その品質や効果の優秀性は顧客から折紙をつけられていましたが、明治39年の発売当初は、和光堂薬局の片隅にあった4畳半の小部屋で原料を乳鉢で混合しながら細々と作られていました。
    シッカロールの記載は、1912年(明治45年)の『小児養育の心得』に初めて登場しますが、徐々に、お風呂上りにはシッカロールという習慣が普及し、湯上りの赤ちゃんの肌に塗られ、子どもに孫にと引き継がれていくことになります。
    シッカロールの名称ですが、ラテン語で「乾かす」を表わす「シッカチオ」から名付けられました。明治末期につけられた名前としてはたいへんモダンなものでしたが、その名称は、『広辞苑』や『新言海』に掲載され、天瓜粉(天花粉)やベビーパウダーよりもシッカロールといったほうが通用するほど、一般的な言葉となっています。
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  2. 1917 大正6年
    国産初の育児用粉ミルク『キノミール』発売
    赤ちゃんの栄養不足を解消したい!
    和光堂の初代社長として、赤ちゃんの健康と幸せを願い、さまざまな事業を興した大賀も、もとから事業家だったわけではありません。今でいうところの国家公務員であり、経営にも化学にも薬品にもまったくの素人でした。
    その大賀が和光堂の社長になったのは、大正3年(1914年)のことです。和光堂の創設者であった弘田長(つかさ)博士は一流の学者でしたが、会社経営に身を入れる暇や才能はありませんでした。和光堂の存続が難しいことを知った大賀は、「なんとか育児のための貴重な商品を維持して、赤ちゃんの命を救いたい」という一心で、再建に尽力する決心をしたのです。
    大賀は、乳幼児の死亡率を低下させるために、赤ちゃんの栄養不足を解消したいと考えていました。当時の日本には、まだ粉ミルクという製品は存在していませんでしたから、母乳にかわるものとしてはもっぱら糖類を加えた牛乳が利用されていました。ところが、その牛乳の品質がよくないのです。これを知った大賀は、牛乳についてさまざまな調査を開始しました。
    一般の家庭には冷蔵庫などない時代ですから、牛乳を冷蔵保存することができず、特に夏場などはすぐにいたんでしまうということが分かりました。販売業者も牛乳に関する専門知識が乏しく、品質を落としがちであることも明らかになりました。そして何より大賀を驚かせたのは、いたんだ牛乳を飲んだことが原因で、赤ちゃんが命を落とすケースが多々あるということでした。
    この事実に心をいためた大賀は、どうにかして牛乳の品質を一定に保つことができないものか、と考えはじめました。
    そして、「牛乳を粉末にすることができれば、保存方法も簡単になるだろう。溶かせば純良な牛乳に戻り、しかも一般家庭でいつでも購入できるようなものにすれば、多くの赤ちゃんの命を救うことができるに違いない」という結論に達したのでした。

    手探りで牛乳の粉末化に成功
    「品質がよく、しかも誰もが購入できるような粉末の牛乳をつくろう」。そう考えた大賀は、学者達に相談を持ちかけました。ところが誰もが、「牛乳を粉末化することは不可能だ」とクビを横に振るばかりでした。
    なんとかして乳幼児死亡率を低下させたい、と願っていた大賀は、牛乳の粉末化をあきらめることができません。そこで、自宅前に建てた研究所兼工場で、独学で研究に取り組むことにしました。
    そしてある日、偶然ヒントを発見しました。実験器具についた数滴の牛乳が、固まり乾燥していたのです。大賀は「やりかた次第で牛乳も粉末化できるに違いない。家庭では牛乳に糖分を加えて飲ませるのだから、糖分を加えてから粉末にすれば、より便利なものになるだろう。それに牛乳だけを乾燥させるより、他のものを調合して乾燥させるほうが簡単にできるかもしれない」と考えました。
    手本になる製品や、参考文献がないにもかかわらず、大賀は来る日も来る日も実験に取り組みました。夜眠りについてからも、実験の夢を見て飛び起き、そのまま朝まで実験を続けることもしばしばだったと言います。社員たちも大賀の熱意にほだされ、全社一丸となって試行錯誤を繰り返しました。
    そしてついに国産第1号の育児用ミルクが完成したのです。牛乳についてまったくの素人が、ただ赤ちゃんの命を救うことだけを願って開発に取り組んだ製品は、当時としては学術的にも「これ以上のものはできない」と言われたほどのものでした。"キノミール"と名付けられ、大正6年(1917年)3月に発売されると、その便利さがうけて大変な反響を呼びました。外国製や国産他社の粉ミルクが市場に出回るようになったのは、それから2〜3年後、第一次大戦が終わってからのことでした。
    ちなみに"キノミール"という名前は、ドイツ語の"キンド(子ども)"と英語の"ミール(食べ物)"からつけたと言われています。
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  3. 1930 昭和5年
    「ヱビオス」発売
    日本におけるビール酵母の研究は、明治時代から始まった。
    アサヒグループでは、早くからビール酵母を重要な研究対象としてきました。イギリスの雑誌で、ビール酵母にビタミンBが非常に多く含まれることが報告されると、当時ビール酵母の研究に没頭していた研究員たちは、さっそくビール酵母の薬品・食品への開発に取り組みました。
    そして、ビール酵母からホップの苦みを取り除くことに苦労しながら、1930年にビール酵母による医薬品(現:指定医薬部外品)「ヱビオス」が誕生しました。
    「ヱビオス」の名前の由来は、大日本麦酒株式会社の工場が「恵比寿」にあり、これとギリシャ語の「BIOS(生命のもと)」を組み合わせたものです。
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  4. 1937 昭和12年
    国産初のベビーフード『グリスメール』発売
    栄養のある衛生的な食べ物を与えることが緊急課題
    子育て中のお母さんの強い味方と言えばベビーフードです。日本で最初のベビーフードをつくったのは和光堂でした。昭和12年(1937年)のことです。
    当時の乳幼児死亡率は、出生数1000人に対して106.8人と非常に高いものでした。和光堂創立当初の乳幼児死亡率が出生率1000人に対し150〜160人だったことと比較すれば、減少してはいました。けれども欧米諸国と比べると、まだまだ高率でした。
    死亡の原因は、肺炎などの病気のほか、栄養不良、消化不良、細菌性の消化器疾患などでした。それだけに、子どもたちに栄養価が高く、しかも衛生的な食べ物を与えることが、緊急の課題だったのです。この課題を解決するために誕生したのが、わが国で最初のベビーフード、アルファ化粥"グリスメール"でした。
    ところで、海の向こうのアメリカでは、日本に先立つこと10年、1928年にはベビーフードが誕生していました。発案者は缶詰工場経営者のダニエル・F・ガーバー氏でした。パーティーに出かけようとしていた彼は、支度そっちのけで子どもの離乳食づくりに取り組む妻の姿を見て、製品化を思いついたと言います。
    つまりアメリカでは、お母さんたちに楽をさせる手段としてベビーフードが誕生したと言えましょう。このあたりの事情は、子どもたちへの栄養補給という必然性からうまれた日本の場合とは、だいぶ違っています。
    ちなみにガーバー氏が最初に製品化したベビーフードは、エンドウ豆、西洋スモモ、ニンジン、ほうれん草の裏ごし、牛肉野菜スープの5種類の缶詰だったと言われています。
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  5. 1965 昭和40年
    業務用粉乳『ニューラクト』発売
  6. 1966 昭和41年
    『ミースト』発売(ビール酵母を原料とした自己消化型酵母エキス)
  7. 1982 昭和57年
    日本初のブロックタイプ(みそ汁と具材が一体となった)の即席みそ汁が完成
    「具の入った一人分のおみそ汁をフリーズドライでつくってくれないかしら?」
    アマノフーズのフリーズドライ商品第1号は、1982年に誕生したおみそ汁です。その開発は当時の社長夫人の一言がきっかけでした。「一人分のおみそ汁をつくったり、暑い夏にだしをとるのは大変だから、フリーズドライでつくってくれないかしら?」この何気ない主婦の言葉から、その後の商品開発の礎となる新たな試みが始まったのです。

    味噌をブレンドすることで味噌屋にはない味わいを実現。
    おみそ汁をつくるうえで、要となるのはやはり味噌です。日本全国から30種類もの味噌を集めましたが、思うような味が見つかりません。そこで思いついたのが「味噌を混ぜること」。どこの味噌を使い、どれくらいの割合で配合するのか試作が始まりました。最終的なブレンドが決定したのは約2ヶ月後。夢に出てくるくらい試作を繰り返し、塩分で口内炎ができるほどでした。しかし、苦労の甲斐あって、目指していた以上に美味しく、具材に合わせたブレンドをすることにより、味噌屋にはない味噌が完成しました。

    失敗に終わっても決して妥協することなく、様々な具材に挑戦。
    だしと具材もおみそ汁にとっては大切な要素です。最初につくった具材は、お湯をかけるとふわっと広がるほうれん草でしたが、当時はほうれん草の味噌汁は一般的でなく、社内では「なぜほうれん草なのか?」という意見も出ました。ほかにも様々な具材に挑戦しましたが、失敗に終わったものも多くあります。しかし、決して妥協はせず、油揚げも、豆腐をつくるところから、厚み、形、揚げる温度を学んで、フリーズドライ向きのものをつくり上げ、だしも当時支持されていた味や風味を研究して選びました。

    フリーズドライの可能性を信じ、試行錯誤を繰り返してついに完成!
    開発が始まって以来、様々な苦労や失敗を重ねてきたフリーズドライのおみそ汁ですが、開発を止めようという話は一度も出ませんでした。私たち開発担当者たちはフリーズドライの可能性を信じて試行錯誤を繰り返し、1982年、ついにフリーズドライおみそ汁を完成させました。
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  8. 1984 昭和59年
    世界初のフリーズドライベビーフード発売
  9. 1991 平成3年
    『スーパーミースト』発売(ビール酵母を原料とした酵素反応型酵母エキス)
  10. 1992 平成4年
    「和光堂 手作り応援」シリーズ発売
  11. 1994 平成6年
    「バランスアップ」発売
  12. 1996 平成8年
    「ミンティア」発売
    アサヒグループ食品株式会社の主要ブランド「ミンティア」は、1996年にポーラフーズ株式会社から発売されました。
    「ミンティア」の名前の由来は、ミントタブレットと一目でわかり、語感と英文にした時のバランスの良さから「ミンティア」と名前がつきました。
     ミントタブレットとしてのおいしさに加え、携帯しやすい薄型容器という付加価値と当時200円が中心価格だった錠菓市場で100円という価格設定で発売することで、タブレット菓子市場の拡大に貢献してきました。その後、「ミンティア」は2003年にアサヒフードアンドヘルスケア株式会社に継承され、2007年にはタブレット菓子市場で売上No,1を獲得。以降、タブレット菓子No.1ブランドとして多くのお客様に支持されています。
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  13. 2000 平成12年
    『和光堂レーベンスミルク はいはい』『和光堂フォローアップミルク ぐんぐん』発売
  14. 2001 平成13年
    「フルーツクリームブラン」発売
  15. 2001 平成13年
    介護食「食事は楽し」発売
  16. 2006 平成18年
    「1本満足バー」発売
  17. 2006 平成18年
    「スリムアップスリム」発売
  18. 2007 平成19年
    「1本満足バー ベイクド」シリーズ発売
  19. 2007 平成19年
    「ディアナチュラ」発売
  20. 2007 平成19年
    「和光堂 栄養マルシェ」シリーズ発売
  21. 2008 平成20年
    「和光堂 グーグーキッチン」シリーズ発売
  22. 2012 平成24年
    「ディアナチュラ スタイル」シリーズ発売
  23. 2013 平成25年
    「ミンティア メガ」シリーズ発売
  24. 2014 平成26年
    「ミンティア ブリーズ」シリーズ発売
  25. 2014 平成26年
    「アマノフーズ いつものおみそ汁」シリーズ発売
  26. 2014 平成26年
    「アマノフーズ うちのおみそ汁」シリーズ発売
  27. 2015 平成27年
    「ディアナチュラ ゴールド」シリーズ発売 機能性表示食品
  28. 2017 平成29年
    「バランス献立」発売
  29. 2017 平成29年
    「ミンティア エクスケア」シリーズ発売
  30. 2017 平成29年
    「アマノフーズ Theうまみ」シリーズ発売
  31. 2018 平成30年
    「ディアナチュラ アクティブ」シリーズ発売
  32. 2018 平成30年
    『エビオス 整腸薬』発売
  33. 2018 平成30年
    「1本満足バー プロテイン」シリーズ発売
  34. 2019 令和1年
    「WAKODO GLOBAL」シリーズ発売
  35. 2020 令和2年
    「バランス献立 やわらか食 なだ万監修カップ入り」シリーズ発売
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